「これが世界の王だった」

これまで鷹爪に寄せられた情報をまとめ掲載する、とってもユカイで微笑ましいコーナー!
(事実と異なる記述がある可能性があります。ご了承下さい。)



04年、8月の対西武三連戦で、三日連続「緊急ミーティング」を行った。


97年7月5日近鉄戦、4回二死満塁、打者ローズの大ピンチで、審判に内山から吉田豊彦に交代を告げたつもりが誤って吉田修司とコール。試合展開から当然自分だと思った豊彦はマウンドへ向かうも審判に止められてベンチに戻され、準備ができていなかった修司が慌てて当番。修司は村田コーチから謝罪を受け、準備もできていないということで四球で歩かせていいと言われたが、満塁でそんな敗退行為もできず修司は勝負。結果、センターフェンス直撃の2点タイムリーを食らってしまった。さらに王監督は今度はこの修司に対して何故か激怒、打者一人でスイッチのはずが、そのまま一イニングをフルで投げさせた。また斉藤貢を送るつもりだったのに斉藤学と告げたことがあり、この時もやはり訂正できずに登板させている。


99年春のニュースステーションでキャスターの「優勝したら川に飛び込んでくれます?」との問いに「そりゃいきますよ、頭から」と答えた。またテリー伊東とも「優勝したら那珂川に飛び込む」と約束していたが飛び込まなかった。


阪神新庄の投手登板に対し「真剣みが失せる。対戦させられた打者の気持ち。活躍の場を奪われた投手の気持ちを考えろ」と待ったをかけたことがあったが、その後パリーグ審判団に野手兼投手のことを質問して「お墨付きをもらったよ」と喜んでいる。


98年オフ、鈴木慶祐とすれ違った際に「来年も共に頑張ろう」と声をかけた。鈴木はそれを聞いて現役続行が既に決まっているのかと思ったが、直後フロントから解雇通告を受けた。既に解雇が決まっていたことを王監督は知らなかったのだが、デリケートな時期ながら深く考えずに愛想を言ったために、とんだ思わせぶりとなってしまった。


96年の開幕戦で、対戦相手のロッテの開幕投手が園川だったことに怒り「開幕投手には格ってものがある」と非難したが、ホークスはこの試合に敗れている


99年キャンプで王監督自ら打撃投手として登板したことがあった。登板前日には、最終調整と称してブルペンで100球も投げ込み「小久保や吉本になげようかな」と上機嫌だったが、当日は疲れきっていた。日本ハムの上田監督が自軍のキャンプをあちこち見て回って「時間が足りない」というのとは対照的であった。


1983年秋、読売監督就任時の会見で「打高投低のチームを作りたい」という奇抜なコメントをした。隣で堀内投手コーチが苦虫を噛み潰したような顔をしていたという。1985年のドラフトで桑田真澄を指名したときには「投手王国を作りたい」と発言している。


99年5月20日のプロ野球ニュースでインタビューに答えた王は、シーズン序盤だったが「優勝が見えた」と発言。さらに「巨人はやっぱり気になるよ」「ON対決を実現したい」「巨人は輝いて欲しい」などと、巨人の話ばかりをしていた


98年、ドラフトくじ引きに向けて、「麻雀の盲牌より緊張するよ。選抜の優勝投手の腕を見せてやる。」と語っていた。


99年初優勝の胴上げの時「宇宙で一人」と自分を称えた。またセレモニーでは前シーズンのオフについて触れ、「外出もままななっ…ままならぬ屈辱のシーズンオフを過ごしました」と噛みながら発言、外出がままならないほどのことをやっておいて(采配や発言の問題はもちろん最後は5連敗を喫している)それを優勝セレモニーで言うのかと、一部のファンの失笑を買った。他にも「世界で一人」という名言も残している。


99年オフ、FA移籍が活況のとき「FA選手を取りすぎると、どうしてもチームカラーが変わってしまう。巨人の場合もFA選手を多く取りすぎたのは事実だよね」 と発言。しかし当のホークスもチームカラーが変わるほどのFA乱獲で度々批判されていた。


07年9月15日、吉川が打球を受け退場した試合で、「山崎がああいう形で吉川をノックアウトしてくれてこっちの流れになった」とコメントした。ちなみに翌16日に1点リードで迎えた9回表、馬原が唯一活躍している稲葉に死球を与え、負傷退場させたにも関わらず、ヒーローインタビューに出ている。前日の発言があっただけにインタビューを止めるように監督として指示できなかったのかと問題視された。


99年2月15日に行われた懇親ゴルフ大会で優勝。勝因を聞かれ「もって生まれた運」と発言。


98年オフ、ホークスの不振の原因を「南海の負け犬根性」にあると発言。さらに、週刊ベースボールでは「南海時代を含めて約20年間、言葉は悪いけど、馬なりにやってきたわけだからそんなチームをそう簡単に変えられるものではない」ともコメントしている。しかし実際のホークスは根本の大補強策によって、王就任直前の94年には貯金9の成績を収めるほどのチーム力をつけおり、また佐々木誠を放出するなど南海色も掃討されていた。さらに王の就任条件であった宿敵西武のエース工藤を引き抜きにも成功、金権、強行ドラフトの小久保、柴原、城島らが台頭してきた時期でもあった。この条件下で監督就任から5位、6位と低迷した上、さらにこういった発言が続いた事で「何故今さら南海の責任にするのか」「発言と事実が全く違う」と、多くのファンを激怒させてしまった。他の媒体でも「南海時代のコーチがいなくなる頃、このチームは優勝できるだろう」とも発言している。


選手として現役引退するとき、「多分私の後に背番号1をつける人はいないでしょう(永久欠番)」と発言。球団職員のOLたちは「王さんって結構図々しいのね」と話し合っていたという。


05年5月13日の中日戦で、ホークスカブレラの折れたバットが中日の先発川上に直撃し退場となったときのインタビューで「(川上にバットが)当たったのはラッキーだったね」と答えた。


他の事件でもあるように、失言でファンを怒らせるということはよくあったと言える。他にも「俺はBクラスなんて知らないんだ」「監督していたときも含めて巨人時代は勝ちっ放し」「20年近くBクラスにいるから負けるのに抵抗を感じなくなっちゃったのかな。東京で20年近くBクラスにいたら球団は消えているだろうが、九州にあるから、それに福岡の人は優しすぎるから」などの発言が有名である。また一方で口数が少なくなることもある。脱税事件やスパイ事件が発覚した時は「残念だ」「プロはいい結果を残し払拭するしかない」などと他人事のように語るのみで、またローズに対するホームラン記録阻止事件では若菜が舌禍事件を起こしたが、それについても特にコメントらしいコメントを残さなかった。


小久保がオープン戦で「内側じん帯損傷」「前十字じん帯損傷」「けい骨、大たい骨骨ざ傷」「外側半月板損傷」という大怪我をし、手術で半年かかるという報告を受けたにも関わらず、「開幕はDHでも復帰して欲しい」と発言。


ドミニカにソーサを訪問したときヘリで登場し周囲を大変驚かせた。王監督は「オレがヘリで自宅まで来るとは、驚いただろうな」とご満悦だった。


西武カブレラの王の記録更新がかかっていた試合で、ホークス投手陣がカブレラに3四死球を与え、怒ったカブレラがラフプレー。それに対し「あれは良くない。ますます勝負してもらえなくなる」と、もともと勝負する気がなかったかのようなコメントをしてしまった。


ON対決に敗れた試合の後、王監督が宿舎のホテルで残念会を開催。しかしフロントスタッフが一人も参加しておらず「なぜいないんだ。捜せ!」と激怒した。球団幹部が女性同伴で泥酔してホテルに戻ってきたのは深夜だった。


08年4月30日の対西武戦で、ホークス投手陣が5回で早くも3死球、前日も2死球を与えたいたことで西武ベンチが抗議に飛び出し、両軍入り乱れてのもみ合いとなった。王監督はその険悪な雰囲気の中「若い投手だからしようがない。練習の場なんだから」と発言してしまい、西武渡辺監督を「練習ならファームでやって下さいよ!」と激怒させた。


オープン戦で松田がコーチのサインを見落としてホームランを打ってしまったが、王監督は手放しで喜んで迎えていた


98年の夏の連敗街道中に「王貞治ビッグワンカップ」という麻雀のタイトル戦に協力、表彰式にも参加していた。これが掲載された麻雀雑誌の読者の欄には、「とても驚いた。連敗で最悪の状態の時に、監督が麻雀のタイトル戦に応援に行っている余裕。」という賛辞なのか批判なのか解らないような投稿があった。


99年、ダイエーは悲願の初優勝を果たした時、なかなか胴上げが始まらず「それじゃすまないだろう!」という某フロントのかけ声でようやく始まったと新聞に書かれた。


初優勝のとき、ダイエー本社の店長総会にゲストとして出席、「名誉店長」という風変わりな称号を手にした。


98年開幕直前、NHKに出演していた森(前西武監督)に「王監督がねぇ、ちょっと勝ったくらいで喜びすぎなんですよ」と批判された


99年ゴールデンウィークの対オリックス戦開始前の駐車場にて、チームが調子がいいのにファンに後頭部を殴られた。怒った王は「おい、ちょっと来い!」と言ったが逃げられた。その二日前にもファンの襲撃を受けている


95年の終盤、ファームで万全の状態に戻ったという加藤伸一から一軍で使ってもらえるようテストを直訴されたが、何故かテストそのものを拒否した。そのオフ、加藤は自由契約となり「見返す」と言い残しカープへ移籍、宣言通り翌96年からローテで活躍し、カムバック賞を獲得するなどその後3年間で18勝を挙げた。98年は8勝、防御率2.99という好成績を残すも、チーム事情から加藤は自由契約となった。そこに獲得の意思を最初に表明したのが、なんと王監督だった。テストを拒否しておいてよく…と周囲を驚かせたが、当初は加藤もホークス復帰に前向きな態度を見せており、ホークスサイドに「獲得に手応え有り」と思わせていた。が、一転加藤は南海時代からの師匠河村コーチのいるオリックスへ。王に恥をかかせるための加藤の罠だったのではないかとも噂された。


96年の日生球場で試合終了後、怒ったファンに選手団のバスが襲われ、無数の生卵がぶつけられるという事件が発生した。監督批判の横断幕やヤジが多かったため、当時の新聞報道の論調は「王監督の采配や言動に怒ったファンの仕業」だったが、99年の優勝あたりからは王讃辞の空気が支配するようになり、事件を振り返る際「チームのふがいなさに怒ったファンの仕業」に変わっている。しかしチームのふがいなさはこの年に限った事ではなく、田淵時代にはホークス史上最低勝率を記録しており、暴動の理由の変移には疑問点が多い。他にも田渕、根本の最下位時代には全くなかった「発煙筒事件」「裸応援団事件」といったファンの暴挙が王監督時代になってから多発しており、また王監督への直接の暴力事件も発生したことから、彼自身の行動や発言が引き金になったと考えるのが論理的と考えられている。


99年シーズン終了間際の遠征移動中、初優勝決定後ということもあってマグワイヤ65号の知らせを受けても「1000本いっちゃうな」と周囲をなごませていたが、「監督の記録(868本)超えてしまいますね」とのストレートな問いには「状況が違う」と顔色を変えて、新幹線に乗り込んでいた。


松坂に負けた夜にNHKに出演し、松坂の分析をして次回は攻略できると断言していた。しかし前夜、松坂対策に選手達に速球を打つ練習をさせていたが、秋山などスライダーを中途半端に引っ掛けまくっており、分析と言うより作戦ミスの反省と捉えられた。


04年9月16日の近鉄戦。同点で迎えた9回裏1死2、3塁の場面で、近鉄的山の飛球が右翼線際に上がった。王監督は「捕るな、捕るな!」と絶叫。ライト柴原はこれを捕球しバックホームしたが間に合わずサヨナラ負けを喫した。敗戦直後、王監督は「柴原ッ!ファウルって分からなかったのか!」「あのケースでファウルは捕るのか!」「ランナーが三塁にいたのを知らなかったのか!」などとベンチで激高していた。しかし柴原は「あれは捕らないといかんでしょ。フェアゾーンに落ちたら終わり。ライン上だったから」とコメント。島田コーチも「明らかにファウルだったら捕ってはいけないが、あれは取らざるを得ない。柴原は間違っていない。返球がよければアウト」と柴原をかばっていた。


阪神のバースが本塁打日本記録に並ぼうとしたとき、また近鉄のローズ、西武のカブレラがそれぞれ本塁打日本新記録に王手をかけていたとき、いずれも相対するチームの監督として敬遠攻めをし(あるいは敬遠を止めるように促さず)、批判を浴びた。ローズ敬遠に対しては川島コミッショナーから「ファンの前で堂々と胸を張れる試合を望む」との厳重注意を受けた。そのとき王監督は「選手に一切任せていました」と、無言の圧力が働いたことを暴露するかのような発言をしてしまった。


前世紀の王は「戦力ダウンを招く場当たり的投手起用をする監督」で有名であった。それは巨人監督時代から知られていたが、ホークスでも多くの故障者を出す采配をしたと言われている。98年には抑えの切り札の岡本を同点、ビハインドの場面でも起用する采配を展開、案の定岡本はシーズン中盤に疲労からリタイヤしたが、復帰後も同様の起用をされていた。岡本は疲労の蓄積で99年の開幕に間に合わなかったという。また99年の開幕後、先発で3イニングを投げノックアウトされた吉武を翌日の試合で2イニングのリリーフに使うなど、一シーズンに二度も先発をリリーフを往復させたり、木村恵二、ホセ、作久本らにも同じような起用をしていた。吉武がマウンド上で号泣した事があるのは有名である。常にゲリラ的、下柳的な起用を行うことで、投手陣に精神的・肉体的な負担をかけ、戦力ダウンをしたところにさらに戦力をあてがっていくという悪循環を招き、吉武、ヒデカズ、永井、佐久本という若い将来の投の柱が次々と倒れていく惨状は、多くの評論家にも批判の対象となった森祇晶「こう育てたいというのがない」、村田辰美「(戦力は揃ったが)後は監督次第」)。

参考

 99年4月7日、日本ハム戦で、好投していた先発若田部が、7回突如崩れた(4死球)。王監督は慌ててリリーフ陣を送り込んだが中継ぎの柱の吉田修司も打ち込まれた。最後は5点ビハインドで、抑えの切り札山田を登板させている。試合後、王監督は「どうも投打が噛み合わない」とコメント。

 99年4月8日、北九州での行われたロッテ戦でホークス投手陣がメッタ打ちを喰らい、22-2のスコアで大敗した。先発吉武に代わり登板した2番手土井は3連続押し出しを出しても交替させてもらえず、
「土井のさらし首」と言われた。(開幕2日目に0.51でスタートしたホークスだったが、この日のためにあっと言う間にリーグ最下位の4.04になっている。ちなみに王監督はその開幕2日目の試合後、「防御率0.50だね」と計算違いをして嬉しそうにコメントしていた)。

 98年、優勝争い真っ只中のオリックス戦(GS神戸)で、1点ビハインドの状況で好投の長富をウィリアムズに代えたが、押し出しなどで4失点。
逆転がほぼ絶望的になってから抑えの切り札岡本を起用した。

 98年終盤、
疲労困憊の西村と武田の中4日先発を3回も実行した。

 98年6月13日の対ハム戦にて、3対3の同点の場面、7回頭からプロ初登板のルーキーの永井を起用し決勝打を打たれた。その後の永井の起用法は一定しなかった。

 99年4月16日、福岡ドームで行われた対ロッテ3回戦で先発した山崎が、不安定な投球で5回途中でKOを喰らった。あまりの不甲斐なさに、王監督は昨日こちらも散々だった土井と一緒に二軍落ちにすることを決めたのだが、「開幕初登板の結果で続けざまに判断するということはオープン戦の段階で戦力を見極められなかった監督の手落ちではないか」という批判がファンの間で起こった。


就任当時,秋山の移籍騒動が起こった際、「話が違う!」と必死になって残留を勧めていた。


ビッグコミックオリジナルにて、貞治、水島、景浦の「夢」の座談会が開催されていたが、王の台詞に「26年のうち、私に責任があるのは5年だけですから」というものがあった。


98年オフ、巨人・原総合コーチ就任について「二軍監督を経験するべき。その経験がないから僕は苦労してるんだ」と発言。


吉永が極度の不振からある日突然4番打者からいきなりスタメン落ちになったが、その日のうちに王監督は「4番は城島しかいない」と報道陣に前日までの自分の采配を否定するかのような発言をした。


外国人投手の補強の失敗が続いたことで、98年、王監督は自らテストすると決起、その第一号としてボルトンを獲得した。しかし通用する以前のレベルであったことで、プロ野球ニュースで田尾安志に「ボルトンはもう無理じゃないですかね」と烙印を押されていた


放出した選手が次々と活躍することで、「選手を見る目が無い」と批判される事が多かった。(例:田畑、高木、加藤、下柳、山本、木村、武田、広田、吉田豊、馬場、西)


07年7月11日の楽天戦。8-2の大量リードのはずが水田が打たれ2点差までに追い上げられ、たまりかねた王監督は珍しくマウンドまで行って「思い切って勝負しろ!」と激を飛ばした。その直後、水田は思い切って勝負し逆転3ランを打たれた。チームは敗戦。


99年の西武との練習試合で、9回、2塁ランナーの大友が汗を拭おうとヘルメットに手をやった際、キャッチャーの坊西が「(禁止されている)打者へのサイン伝達行為ではないか」と審判に申し出たときのこと。その年の監督宣言に基づいてのアピールプレイだったが、ホークスが起こしたスパイ事件がきっかけの宣言であったこともあり、東尾監督は「納得がいかない。この野郎!」と激怒、伊原コーチも「そこまでいうなら退場にしろ!」と怒りを隠せないでいた。これに対し、王は「サインを送った送らないは別に、審判も勉強」と発言していた。


98年5月4日、一塁ランナー吉永が3塁に進塁してから代走を送った



Back

Boctor Bros.